情報は如何にして提供されるものなのか?
2016/06/10
今回は、情報の性質を踏まえ、情報がどのように提供されているかについて考えていきたいと存じます。
まず、情報の性質とは如何なるものかを考察し、その上で情報とはどのように提供されるものであるべきかを考えていきたいと存じます。
情報の性質とは
情報を考える上で、その基本的な性質について理解していることは、情報を扱う上で重要になります。
情報の性質とは、与えられることでそれまで持たなかった考えや知識、技術が身に付くものと言えます。
俗に言う、見解や知見といった概念は、主に情報がもたらしているものだと言えます。
また、受け取った情報はそのまま使うこともあれば、場合に応じてその姿を自在に変える場合もあり、その時々によって柔軟に変化するという特性を持っています。
よって、情報の形はその受け取り方で様々な変化を見せ、決して画一的なものではなく、その性質は決して一定ではありません。
つまり、情報の受け取り方で柔軟にその形を変化させるという特性があるわけです。
したがって、情報を得るということは、私たちが生きていく上で欠かせない生活の知恵であったり、社会を生き抜く為の手法であったりと、その中身は千差万別だと言えます。
私たちは情報を定義する上で、この情報の柔軟性についてまずは抑えておく必要があります。
この概念を基に実際に情報がどのように提供されているかについて考えていきたいと存じます。
情報はどのように提供されるのか
情報とは、私たちが生きるために不可欠のものであり、情報なくして日々の生活を営むことはできません。
しかし、既にご存知の通り、情報には正しいものとそうでないものが混在しており、情報の真偽を見極めることで、私たちは常に情報の選択を求められています。
正しい情報を選択した場合は、日々の生活に活力を与え、より良い生活を送るためのヒントとなりうる存在になりますが、誤った情報を選択した場合は、場合によっては日常生活が崩壊し兼ねない危惧をはらんでいるわけです。
また、先に述べた情報の性質を考えると、必ずしも私たちに与えられる情報が、私たちが求めている情報の全てではないと言えます。
なぜなら、情報とはその時々によって自在に姿を変えるものであり、そのような情報の中には限定されたものでしかない場合があるためです。
よって、私たちが情報の提供を受ける場合、その内容には常に気を配る必要があります。
その中には情報提供者にとって有利なものが含まれていることもあり、私たちはその内容を慎重に判断する必要があります。
これは、人間の行動心理を紐解くことでその実態が明らかになります。
情報における人間の行動心理とは
私たちは自らが持つ情報に価値を求めます。
なぜなら、自らが持つ情報に意味を持たせることで他者より優位に立ち、または自己を確立しているからです。
具体的には、自身が持つ情報を小出しにすることで、他者に限定的な情報を与え、その情報の全貌を明かさないことで、その情報に価値を見出しているのです。
敢えて与える情報を限定することで、その情報に対する欲求を喚起し、情報を求め続ける者がいることで、その情報に価値を与えているのです。
人々にとって有益な情報ほどその傾向が強く、まさに人間のあさましさが現れていると言っても良いかもしれません。
限定的な情報を小出しにすることで、情報を持つ者は、持たざる者に対して優位に立つことができるわけです。
場合によっては、情報を少しずつ提供することで、その全貌を明かさず、自らはその情報を提供することにより利益を享受するという構図が見て取れるわけです。
少なくとも、過去の情報を巡る確執はそのようにして繰り広げられてきたと言えます。
特に情報を持たずまた発信する手段を持たない者は、情報を発信する者に対して圧倒的に不利な立場に立たされたわけです。
これは情報の発信者と受信者が明確に区分されていた時代に、顕著に現れていました。
情報の価値は小出しにすることで上がる
先に述べた通り、情報を持つ者は持たざる者に対して優位に立つために過去利用されてきたと言えます。
それでは、現代社会において情報の持つ意味とは如何なるものなのでしょうか。
情報の性質やその特性を考えると、既に述べた通り、その情報が持つ柔軟性と人間の行動心理がもたらすその秘匿性や限定性は現在過去においてもそう大差があるものではありません。
では、何か変わったかと言えば、それは情報を発信する側と受け取る側との関係です。
かつて情報は、一部の権力者や有力者により、限定的に発信されるものに過ぎませんでした。
つまり、限られた発信者から一方的に与えられる物に過ぎなかったわけです。
そのような情報は当然、発信者の意図が含まれ、適度にコントロールされたものになっていたはずです。
だからこそ、一部の権力者が大多数の社会的弱者を支配することができたわけです。
しかし、高度に発展した現在の社会においては、情報は送り手と受け手との区分がなくなり、互いに双方向なやり取りがなされるようになりました。
つまり、誰でも情報を得る機会に恵まれ、また発信することができるようになったわけです。
その結果、私たちは過去とは比べ物にならない程の情報を得ることになり、その恩恵を受け社会は大きな発展を見せました。
しかし、それでも尚、人々が発信する情報や受け取る情報にはその全ては含まれていません。
これは一体何を意味するのでしょうか。
それはそれまで情報を与えられる側であった者が、情報が持つ価値に気付き、その価値を守ろうとしているからに他なりません。
つまり、自身が持つ情報を小出しにすることで、自らの利益に変えていると言えます。
情報は少しずつ与えることで、その価値を上げることができるようになります。
なぜなら、重要な情報ほど、そのように小分けにして与えることで、人々の情報に対する欲求を強く喚起し、情報発信者はそれだけ多くの利益を得ることができるからです。
そのように考えると、私たち人間の本質は過去のそれと殆ど大差ないのかもしれません。
ただ、一つ言えるのは、そのような情報を手にする者があまりに増えてしまったために、その情報の一つ一つはそれ程の価値を持たなくなったことです。
つまり、情報が飽和したことで、ありふれた情報には誰も見向きもしなくなったと言えます。
よって、最近では、敢えて自らの持つ情報を与え、その情報をより多くの人に提供することで、広く社会貢献が行われるようになってきています。
例えば、敢えて無料でサービスを提供することで、顧客の信頼を勝ち取り、結果的に売り上げ向上に繋げるといった感じです。
「情けは人のためならず」という諺(ことわざ)がありますが、まさにそのように誰かのために尽くすことで、いずれそれが巡り巡って自らが恩恵を受けるという考え方ですね。
これからは、そのような「与えることに徹する」ことで、他者にも自分にとっても有益となる時代が来るのかもしれません。
その意味で今はその過渡期なのだと言えます。
情報の持つ意味を正しく捉え、それを効果的に活用することによって、私たちの未来はまだまだ広がっていく可能性を秘めているのです。